カリーニングラード
Калининград
カリーニングラードはロシアの飛び領土で、ロシア最西端の土地です。
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カリーニングラードとは
| カリーニングラード Калининград |
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| 位置 | |||||
カリーニングラードと周辺諸国地図 |
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カリーニングラードの位置 |
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| 座標 : 北緯54度43分 東経20度31分 / 北緯54.717度 東経20.517度 | |||||
| 歴史 | |||||
| 建設 | 1255年 | ||||
| 旧名 | ケーニヒスベルク | ||||
| 創設者 | ドイツ騎士団 | ||||
| 行政 | |||||
| 国 | |||||
| 連邦管区 | 北西連邦管区 | ||||
| 行政区画 | カリーニングラード州 | ||||
| 市 | カリーニングラード | ||||
| 市長 | Alexandr Yaroshuk | ||||
| 地理 | |||||
| 面積 | |||||
| 市域 | 215.7km2 | ||||
| 標高 | 4.8m | ||||
| 人口 | |||||
| 人口 | (2008年現在) | ||||
| 市域 | 421,678人 | ||||
| その他 | |||||
| 等時帯 | カリーニングラード時間 (UTC+2) | ||||
| 夏時間 | カリーニングラード夏時間 (UTC+3) | ||||
| 郵便番号 | 236000–236042 | ||||
| 市外局番 | +7 4012 | ||||
| ナンバープレート | 39, 91 | ||||
| 公式ウェブサイト : http://www.klgd.ru/ | |||||
カリーニングラード/カリニングラート(ロシア語:Калининград〔カリニングラート〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )は、ロシア連邦西部にあるカリーニングラード州の州都である。バルト海に接する港湾都市で、人口は約42万人。カリーニングラード州はポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛地領で人口はおよそ95万人、世界有数の琥珀の産地としても有名。
カリーニングラードはもともと1255年にドイツ人の東方植民によって建設された都市で、1946年まで使われていた旧名はケーニヒスベルク(Königsberg;ドイツ語で「王の山」の意)。20世紀前半まではドイツの東北辺境の重要都市であった。
目次
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歴史
ケーニヒスベルクとしての歴史
現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年にドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れるプレーゲル川(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、1410年のタンネンベルクの戦いの結果第1次トルン和約が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとしたドイツ騎士団領はすべてポーランド王国の属国となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市がプロイセン連合を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、1466年の第2次トルン和約によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。
1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家のアルブレヒトが修道会国家を世俗化させてプロシア公領を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると1618年より同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1660年のオリヴァ協定でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、1466年より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。
1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。この時期、ケーニヒスベルク大学などを擁する教育と研究の中心地でもあり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出した。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。1848年にはヨーロッパ市民革命のプロイセンにおける中心地となり、王侯貴族の支配に対して商工業者を中心とした市民が立ち上がり、大規模な抵抗運動を行った。
第一次世界大戦後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツやオーストリアによって分割されていたポーランドが独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残されたダンツィヒ(グダンスク)を除いた「西プロイセン」は、ポーランドの海への出口(ポーランド回廊)としてポーランドに割譲された。ケーニヒスベルクを中心とする「東プロイセン」はドイツ領として残されたが、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。
のちにドイツで政権を握ったナチス党のアドルフ・ヒトラーは、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、権威主義的なピウスツキ政権下のポーランド側はミュンヘン会談の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対しチェコスロバキアから併合したズデーテン地方以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それに怒った英仏がドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まった。これにより東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれることとなった。
ソビエト領カリーニングラードへ
独ソ戦中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。1944年8月26日から27日の夜にかけてイギリス軍の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く8月29日から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城、大学などは完全に破壊された。
ソ連赤軍が東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民の西部ドイツへの脱出が始まった。1945年1月13日にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民や避難民はドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルクからの脱出を続けた。要塞化された市街の周辺には地雷や鉄条網などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月の間ドイツ軍は抵抗をつづけた。しかし1945年4月6日から4月9日まで、ソ連軍は4日間にわたり南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した(ケーニヒスベルクの戦い)。
ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。すなわち、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入されたのである。しかし戦後もドイツ系市民約2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内に残留していた。しかし1947年10月11日スターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年にかけてドイツ系残留市民は全員鉄路でソビエト占領区域(旧東ドイツ地域に相当)へと移送された。前後して大量のソ連市民が市内へ移住した。1946年7月4日、ソ連領となったケーニヒスベルクは時の最高会議幹部会議長ミハイル・イワノビッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称された。
カリーニングラードは冷戦時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される閉鎖都市だった。ソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの琥珀の世界的産出地としても地位を確かなものとした。
冷戦後
ところが冷戦崩壊後にリトアニアがソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった(ソ連崩壊後は独立ベラルーシによってリトアニアとも隔てられる)。さらに冷戦後の造船需要の悪化で造船業が衰退して失業率が増加し、市民の4割が貧困層といわれるほど経済状況が悪化、琥珀も密売者の間で高騰する事態となった。ソ連崩壊後の一時期は東欧各国の中心にある地理的特性を活かして「バルト海の香港」としようという夢が語られたが、それとは程遠い状態になりつつある。ソ連崩壊直後にロシアはここをポーランド領とする案を用意(代わりにドイツはシュチェチンを得るという話であった)したものの頓挫、結局そのまま放置されるに至った。
カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心に位置するということもあって、麻薬取引、人身売買、盗難車の取引中継地など、東欧・旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、HIVなどの感染症も蔓延し始めた。さらに、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっていた。もはやこの都市の存在が、ロシアにとってもポーランド・リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となってしまっていた。
独立後10年を経て、ロシア政府はウラジーミル・プーチン大統領の夫人がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。しかし、当初はロシア国内向けの家電組立工場が多数成立した他は特区の効果はあまり出ず、さらに2004年に周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共にEUに加盟したため、カリーニングラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったなど、周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われる状況に陥った。
ところが2004年以降、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され、物流も整備された結果、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げている。2006年10月16日付の、BBCの『カリーニングラード、過去の汚名をそそぐ』と題された記事では次のようなことが述べられている[1]。
…過去数年の経済成長率は毎年10%を超えており、モスクワを含めたロシアのどの地域よりも発展している。域内は建設ラッシュであり、モダンなデザインの新しいビルが建設され、街にはデザイナーズショップが建ち並ぶ。 …また、住民一人当たりの自家用車保有台数はモスクワを上回っている。ロシアで販売されるテレビの3台に1台はカリーニングラード製であり、州内ではハマーやBMWといった高級車の工場がフル稼働している。 …人口95万人のカリーニングラード州の失業率はほぼ0%であり、労働力の不足が深刻である。そのため、カリーニングラード州政府は、ロシア本土などの旧ソ連地域から早急に30万人のロシア人をカリーニングラードに移住させる計画を進めている。とくに辺境のカザフスタンやカフカス地方に住むロシア人は地位が不安定で定職に就くことも難しいため、カリーニングラード州としては彼らを呼び寄せたいと考えている。州政府は、彼らのための住宅建設は順調に進んでおりすぐにでも呼び寄せることは可能である、と述べている。…
…ただし「ロシアの工場」カリーニングラード経済の問題は、原材料や中間製品がすべてロシア本土からやってきて、州内で作られる最終製品の販売先がロシア本土しかないことである。州政府としては、周辺のEU諸国と経済関係を築きたいところであるが、EUと様々な政治的問題を抱えるロシア中央政府がそれに反対している。…しかしカリーニングラード住民の意識は年々変化し、ロシア離れが加速しており、子供たちまで「我々カリーニングラード住民は大ロシア(ロシア本土)とは違って、もっとヨーロッパ的である」と発言するまでになっている。
カリーニングラードの今後のさらなる発展は、東方拡大を進めてきたEUとロシアの関係の重要な課題となっている。
ギャラリー
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ケーニヒスベルクのパサージュ |
アルトシュタットの市場 |
ケーニヒスベルク城の背後の池 |
アルベルティナ大学(ケーニヒスベルク大学) |
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戦後のケーニヒスベルク |
カリーニングラード歴史美術博物館、戦前の建物の再利用 |
城門、Königstor |
城門、Friedrichsburger Tor |
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カリーニングラード市庁舎 |
カリーニングラード救世主ハリストス大聖堂 |
イマヌエル・カント像 |
ケーニヒスベルク証券取引場の残骸 |
ケーニヒスベルク・カリーニングラードゆかりの人物
- ヨハン・ゲオルク・ハーマン:哲学者・文学者
- ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー:哲学者・文学者、詩人、神学者
- イマヌエル・カント:思想家
- レオンハルト・オイラー(下記「ケーニヒスベルクの橋」参照):数学者・物理学者
- ケーテ・コルヴィッツ:版画家、彫刻家
- ハンナ・アレント:哲学者
- ブルーノ・タウト:建築家、都市計画家
- エルンスト・テオドーア・アマデーウス・ホフマン:小説家、詩人、作曲家、音楽評論家、画家、裁判官
- オットー・ヴァラッハ:化学者
- ダーヴィト・ヒルベルト:数学者
- レア・ラビン:イツハク・ラビンの妻
- クリスティアン・ゴールドバッハ:数学者
- 杉原千畝:外交官
姉妹都市
キール、ドイツ
ブレーマーハーフェン、ドイツ
フローニンゲン, オランダ
クライペダ、リトアニア
ウッチ、ポーランド
オルシュティン、ポーランド
トルン、ポーランド
関連項目
- ケーニヒスベルクの橋の問題
脚注
- ^ "Kaliningrad erases stains of past", By Laura Sheeter, BBC News, Kaliningrad, Russia :Monday, 16 October 2006, 14:03 GMT
文献
- Eberhard Beckherrn, Aleksej Dubatov: Die Königsberg-Papiere. Neue Dokumente aus russischen Archiven. Schicksal einer deutschen Stadt. Langen Müller, München 1994.
- Bert Hoppe: Auf den Trümmern von Königsberg. Kaliningrad 1946−1970, Schriftenreihe der Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte, Bd. 80, München 2000.
- Per Brodersen: Die Stadt im Westen. Wie Königsberg Kaliningrad wurde (mit einem Vorwort von Haug von Kuenheim), Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 2008, ISBN 978-3-525-36301-0.
- Eckhard Matthes (Herausgeber): Als Russe in Ostpreussen. Sowjetische Umsiedler über ihren Neubeginn in Königsberg/Kaliningrad nach 1945, Ostfildern 1999.
- Eckhard Matthes: Verbotene Erinnerung. Die Wiederentdeckung der ostpreußischen Geschichte im Gebiet Kaliningrad (1945−2001). In: Osteuropa 51 (2001), H. 11−12, S. 1350−1390.
外部リンク
- 東プロイセン&カリーニングラード
- Official site of Kaliningrad City Hall
カリーニングラード州とは
- カリーニングラード州
- ロシア語: Калининградская область
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カリーニングラード州旗 カリーニングラード州紋章 
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公用語 ロシア語 首府 カリーニングラード カリーニングラード州知事 ゲオルギー・ボース 構成体種別 州 連邦管区 北西 経済地区 カリーニングラード州は単独で経済地区を形成している。 面積
- 総計国内第76位
15,100km²人口(2002年国勢調査)
- 総計
- 人口密度
- 都市/地方比率国内第57位
[[|955,281]]人
63.3人/km²
77.6% : 22.3%時間帯 UTC +2(DST: +3)カリーニングラード時間 ISO 3166-2:RU 番号 ウェブサイト http://www.gov.kaliningrad.ru/
カリーニングラード州(Калининградская область, Kaliningradskaya oblast')はバルト海沿岸のロシア連邦の州(オーブラスチ)。ロシア連邦の最西端で、飛び地である。琥珀を産したことからヤンタルヌイ・クライ(Янтарный Край, 「琥珀の土地」の意)と通称される。
最大の都市は州都カリーニングラード。カリーニングラードは、かつてケーニヒスベルク Königsberg (ドイツ語で「王の山」の意)と呼ばれ、プロイセン公国とプロイセン王国の首都であった。 州名は革命家ミハイル・カリーニンに因む。
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地理
面積は15,000km²。人口密度 71人/km²。南はポーランド、北はリトアニアと国境を接する。主要な河川はプレゴリャ川、ネマン川。主要な湖にヴィスティティス湖がある。
行政
- カリーニングラード
- バグラティオノフスク
- チェルニャホフスク
- プラヴジンスク
- マモノヴォ
- ソヴィエツスク
標準時
この地域は、カリーニングラード時間帯の標準時を使用している。
時差は通常はUTC+2時間で、夏時間はUTC+3時間である。
住民
人口は968,200人(2004年)。うち、741,800人が都市に住む。カリーニングラード市には州の人口の約半分430,300人が住む。
住民の約82%をロシア人が占める。そのほか、ベラルーシ人(5.3%)、ウクライナ人(4.9%)、リトアニア人(1.5%)、アルメニア人(0.9%)、ロシア系ドイツ人(0.9%)、タタール人(0.5%)など。なお、ロシア系ドイツ人とは、ロシアの他の地域から移動してきたドイツ人であり、東プロイセンにもとから暮らしていたドイツ人のことではない。現在の人口の約半分ほどが同地で生まれ育ったと推定される。
歴史
20世紀初頭までのこの地域の歴史については、プロイセン、東プロイセンを参照。
現在のカリーニングラード州の地域は、東プロイセンと呼ばれる一帯の北部にあたる。
1918年、第一次世界大戦におけるドイツの敗戦にともなって西プロイセンがポーランドに割譲されたことで、東プロイセンはいわゆる「ポーランド回廊」によってドイツ本土と隔てられた飛び地となった。第二次世界大戦では、プロイセン地方は、ドイツ軍が劣勢になるに従って東部戦線の戦場となり、 敗戦直前の混乱の中で虐殺・強姦を繰り返すソ連軍を恐れたプロイセンの人々は大量の難民となって西方に逃亡した。
第二次世界大戦後、東プロイセンは分割され、北半分はソビエト連邦の、南半分はポーランドの領土とされた。それを受けて、すぐにケーニヒスベルク特別管区が設置され、ケーニヒスベルク州としてソビエト連邦に編入された。1946年にカリーニングラード州と改称。1947年までに、残っていたほぼすべてのドイツ人住民はドイツに追放された。
戦後、カリーニングラード州はソビエト連邦でも特に軍事施設の集中した地域となり、「ソビエトの不沈空母」とさえ呼ばれた。
ソビエト連邦崩壊以後
1991年以降、約12,000人のドイツ人がカリーニングラード州内に移住することを試みたが、ほとんどは数ヵ月後に再びドイツに移った。
1992年、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領は、1945年のヤルタ会議で計画されていたように、この地域はポーランドに譲渡されるべきであると述べた(ヤルタ会議の取り決めでは、ドイツがシュチェチン地方を領有するかわりに、ポーランドはケーニヒスベルクを得ることになっていた)。しかし、1996年にポーランドが北大西洋条約機構(NATO)への加盟を求めて以降、この発言は撤回された。
2004年5月1日、国境を接する2ヶ国、ポーランドとリトアニアが欧州連合(EU)に加盟したことで(しばしば「紙のカーテン」と形容される)、カリニングラード州は二重の意味で飛び地となり、国境の通行はさらに困難になった。カリーニングラード州の住民は、ロシア本国の住民と同様に、周囲のポーランドやリトアニアへの入国のためにビザが必要である。また、カリーニングラード州の住民がロシア本土に入るためには、リトアニアを列車で通過することになるので、リトアニア大使館から許可を得る必要がある。
カリーニングラード市の周辺の地域は、ソビエト政府が巨大な軍事施設を設置していたために、50年間ほど完全に封鎖されていた(いわゆるZATO(閉鎖都市))。冷戦の終結以後、その軍事施設の規模や環境破壊の深刻さが次第に明らかになってきている。
経済
カリーニングラード州は、軍事拠点として、また不凍港として、ロシアにとって重要な地域である。大規模な造船場や、自動車の組立工場もあり、漁業が盛ん。しかし、周囲の国々や、ロシア本国からの隔絶した地理的環境が大きな足かせとなり、輸出の不振や高い失業率が問題となっていた。 なので、リトアニアへの越境審査の簡略化を行い、高い成長を維持している。 亦、バルト海で発見された油田に期待が持たれている。
また、カリーニングラード州は世界のコハク(琥珀)の90%以上を産する。ヤンタルヌイ市にコハクの加工工場がある。
交通
国際空港がある。鉄道でモスクワ、サンクトペテルブルクや、グダンスク、ベルリンと結ばれている。
関連リンク
- 東プロイセン&カリーニングラード
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